毎年の恒例ながら、本年はコロナ禍にてどうなることかと心配致しました。
一部のお家はご縁を頂戴出来ませんでしたが、ほぼ例年通りに皆さんのお宅へお邪魔致しお顔を拝見いたすことが出来ました。
不安の中、変わらぬ対応を頂き有難う御座いました。
心より感謝申し上げます。
さて、お盆のお参りに限らず、法事、普段の御参りにて必ず、お仏壇のご本尊様に般若心経をお唱え致します。
そのお経の中にて有名なフレーズ、色即是空、空即是色。
この空とは何なのでしょう。
このお経の中で頻繁に使われる文字が空、不、無です。
般若心経は空と無の文字が多く使われていることからもおわかりのように「空」と「無」を説くお経といえます。
しかし、ただ単純に現象が無、空と説いているかといえば、どうもそんな単純な話ではなさそうです。
不とは何々ではないというような否定に使われますが般若心経の中では諸法の空の相(すがた)は不生不滅、不垢不浄、不増不減であるというように相対する性質そのものがどちらも全否定されています。
この不の使われ方と同様に空や無に関しましても「何々ではなく、だからといってその反対でもない」という重層的な使われ方がされています。
このようにどちらでもないといわれると、何かとても曖昧で受け止めがたい気持ちになりますが、実はそうではありません。
言葉のこのような使われ方の中にこそ「融通自在な働きがあるのだよ」と言っているように感じます。
さて、空とは何ぞと問われて「両手をメガネのようにしてそこから覗いて見えるものが空だ」と、おっしゃられる方がおられました。
しかし、眼は対象となる物体をみることは出来ますが空間そのものを見ることは出来ません。
そこで手で作った筒の領分を覗いて見ることによって空間は筒の中という狭いところもあるし、又その外側の広いところにもあることがわかるでしょということでしょうか。
空とはどのようにも形を変えることが出来る自在なものということが、少し感じ取れるのではないでしょうか。
空、無共に私たちの一面的で固定された価値観や発想を疑うこと、そこからしか仏教の説く真実に至る道は無いのだよということを示す言葉のような気が致します。
水子供養へ起こしの皆さん、法事へお越しの皆さん、本堂のホワイトボードにある般若心経の文言を見ます時には、亡き人の菩提をひたすら願うと共にその文言の意味も少し思い描いて頂けましたら嬉しく存じます。
合掌