今日と同じ明日は無く、昨日と同じ今日は無しを身に染みて感じる出来事がありました。
しかしながら、その現実を受け入れる他はありません。
仏教の大本、無常観。
それを表現された諸行無常。
あまりにも有名ですが、このわが身に感じることこそが大事かと存じます。
これはお檀家さん、水子供養へ起こしの若い皆さん、どなた様にも共通なことです。
川を流れる水の流れは絶えず変化し続けます。
昔の人々はよくこの無常ということを言い、又、歌になされました。
常無き世の中と歌人の方がより以上に感じたておられたからでしょうか?
今の私たちはそれほどには口に致さぬように思います。
科学や医学の先進的な進歩により治らぬといわれた病も治療可能になり、様々な災害も辛い出来事はもちろんありますが、随分と軽減もされています。
が、しかしそれで無常は無くなり、常になったのかといえばそれはありません。
昨日迄親しく語らっておられたお身内、お友達、すぐにでも会えるはずの赤ちゃんとの死別。
昨日迄、当たり前だと思っていたことが、ここに無いという現実。
個々人が体験致し、初めて身に染みる、諸行無常。
常に同じ、変わらぬものはこの世には存在致さぬことを思い知らされます。
辛い、悲しみにさいなまれます。
でも、社会が便利になり、生活が豊かになり、寿命が延びたこの現代、この時代とは何かと考えてしまいます。
年々歳歳、花愛似たり。歳歳年年、人同じからず。
人生を積み重ねてゆくことはそう簡単ではないように思います。
今年はコロナ禍も含め災害が多発致しました。
これからも続くかと想像致します。
これらの辛さを無常観という言葉だけで済ますことは出来ないかとは存じますが、その大きな悲しみ、苦しみを少しでも和らげてくれるものが無常観という感情ではないかなと感じます。
現代では、無常観という言葉は、ともすれば後ろ向き、引きこもりを感じさせる言葉になっているかもしれません。
でも、この無常観という言葉を個々の心に置き換えて無常感といたしますと、感情にもっと積極的な働きをもたらすのではないかと思います。
少なくても辛さ、不幸を和らげる為の知恵、仏教の教えが隠されているように感じます。
或いは又、喪失感・絶望感を生きる気力へと転換する、エネルギーがあるように感じます。
だからこそ、万葉集の時代より絶えることなく、無常観をテーマに歌い、作品を残されたように感じます。
先ずは常の中の無常、そして無常の中の常ということは見定めましたら、不幸のそこに落ちてもそれほどに自己を見失わず歩いて行けるような思いが致します。合掌