禅語に主人公という話があります。
日本の東北にも松島瑞巌寺というお寺がありますが、中国の瑞巖寺での逸話です。
瑞巌寺の師彦(しげん)和尚は、ときどき座禅をしている自身に「主人公」と呼びかけて、本来の自分と自問自答をされていたそうです。
「あんた目が覚めてるか」
「はい」
「しっかりしているか?」
「はい」、、と自問自答。
これらは禅の書物「無門関」に書かれています。
「無門関」は、道場で修行をなされている修行僧(雲水)にとってのバイブルです。
師彦和尚の逸話は、我々は何時もこの自分の主人公は自分だよということかと存じます。
自分自身が綿密に判断をして日々を過ごしていると、私も含めて思ってらっしゃる方が多いと存じます。
買い物に例えましたら、本当に必要性を感じ、これこそと思い定めて買っているでしょうか。
たちまち、私も昨日の新聞広告を見て掃除機を購入致しました。
広告や最近ではネットで購入することも多々ございます。
その時は、これは絶対買いと思い購入いたしますが、過去を振り返りますと、購入した物の中には、いまだに手を付けていない商品もございます。
食品においても、無駄にしてしまうこともございました。
お恥ずかしい話ですが、その時々の何気ない気分に流されて購入してみたものの、結局無駄にしてしまうことも珍しくありません。
このように、周囲の雰囲気に流された主体性のない行動を自己の意思と錯覚していることは無いでしょうか?
家庭生活、会社の仕事、人間関係、マスコミの情報、ネットの情報など、様々な情報を十分に確認することもなく、自問自答を怠って行動に移すことはなかったでしょうか?
日頃の反省を込めて、あらためて師彦和尚の逸話を思い出していました。
他からの指示や周囲の刺激に、しっかりと向き合える本来の自分、主体性を持って行動できる自分が「主人公」です。
生活をする中で、その時々に自分自身に「主人公」と呼びかけ、「目が覚めてるか」「お前のその判断、行動は本当にお前のベストの判断か」と問いかけ、「はい」と自分で返事を致し前へ進む、「いいえ」と返事をし立ち止まる、そんなことを指し示す禅語が主人公だと思えます。
世間に流されそうな時、深呼吸を致し「主人公」と自分へ呼びかけ、「はい」「いいえ」「俺はここにいるよ」「自分の判断で生きるよ」と返事を致したいものです。
さて、気が付けば今月はもうお彼岸月、日の経つ速さは止めようもありません。
水子供養へお越しの若い皆さん、年配の皆さん、法事やお墓参りにお越しの皆さん、まだまだコロナ禍が収まっているわけではありません。
意識が薄弱になっても、世間ではコロナで辛い思いの皆さんは相も変わらづ多いです。
油断をせづに日々を過ごし、他者への思いやりを深めたいものです。合掌