十人十色、人間は10人おられたらば、10人皆、各々の個性があります。
先のことを心配するのはつまらんと、全く心配に縁の無い方。
とにかく、明日のこと、いや、明日どころか今日の晩さえ心配される方。
そこまで、極端ではなくても誰しも、自分の身に関わる現実を鑑みて心配、苦悩致すことは当たり前にあります。
私もそんなに心配せずとも大丈夫だと周りから進言頂いても、疑心暗鬼に陥り夜も眠れず、胃が痛いとの思いは何度も致しました。
通り過ぎてみると、周りから頂いた進言通り心配なかったり、或いは、想定以上に辛い現象になったりと様々でした。
元々、気の小さい方ですから、やはり心配性の部類に入ると思います。
さて、上に表記致しました、禅語 莫妄想(まくもうぞう)
”もうそう”とも読めますが、禅語としては「まく”もうぞう”」とお読みいただきたいです。
私を含めて人は、往々にして悪い想像をしがちです。
起こってもいないこと、普通に考えればあり得ないことを想像致し、心配し鬱々と悩んでしまう。
人も動物としての危機管理、本能なのかもしれません。
「あいつは、〇〇かもしれない」が、妄想のフィルターを通り「○○に違いない」さらに「きっと〇〇だ!」さらに「なんて酷い奴だ!」。
最初は憶測だったことが、妄想というフィルターを通る間に、さも事実だったことのように上書きしてしまいます。
昔の禅のお坊さんは、そういう人に向かって「まくもうぞう!」と怒鳴りつけました。
目を覚ませと怒鳴ったのです。
怒鳴り口調が、「そ」に濁点をつけてしまったかのように、(もうそう)ではなく(もうぞう)と読むのです。
字の通り「妄想」はつまらない雑念や間違った想念(思い込み)のことです。
それらのつまらない思い込みの雑念を捨てちまえ!と怒鳴ったのです。
そうは申しても私も、くよくよと悩むことから中々抜け出せません。
「妄想なんて捨てちまえ!」と自問自答しても、イライラがつのるばかりです。
その為、修行道場では妄想を思い抱く暇が無いように、一日のスケジュールで追いまわし、一つ事に集中させます。
そうすることで、つまらない雑念を寄せない器を身につけさせていきます。
私達は、仕事であれ、勉強であれ、読書であれ、写経であれ、身近にある目の前のことを黙々とこなしていく事が出来れば、妄想の出番はありません。
出来ることなら、妄想に取りつかれずに胃を痛くせず、夜もゆったり眠りたいものです。
このブログを書きながら外を見ますと日差しが明るい春の日差しです。
心にも春の日差しを常に保って行きたいと思います。合掌