大切な故人やご先祖様を祀るお墓ですが、時代により徐々に形態も変わってまいりました。
しかし、その存在の大切さは不変です。
生老病死を避けることが出来る方は、誰一人としておりません。
昨日まで先程まで、目を見て口元を見て語り合えた人がいなくなる辛さは語り様もありません。
お檀家さんで奥さんに先立たれたお方が本当に頻繁にお墓参りにお越しです。
私がお墓へ参りますとよくお見掛け致しますので、そのお参りの多さは想像に難くありません。
辛そうにお墓に向き合うのではなく、微笑んでさえいるようにお見受け致すことがあります。
お亡くなりになり、直接に会えない人に会える場所、語れる場所、それがお墓です。
以前に随分と流行った歌に此処(お墓に)に私はいないという曲がありました。
自由に天空を飛び回り、ゆったりと過ごしていますよとのイメージを表現なされていたように思います。
「私のお墓を建ててもらえたから、何の心配もなく風になれたんじゃないですか・・・」
「もしも電車の荷台にお骨が置き去りにされたら、ちょっと待って~♪に歌詞も変わってたかも・・・」
と、知り合いの石屋さんが冗談を言っていたのを思い出しました。
歌のことはさておき、私たちがお墓の前で手を合わす時には、間違いなく其処におられます。
故人やご先祖様の声を直接聞くことはもちろん叶いませんが、私たちがお墓に向かい語っていることは受け止めて下さっています。
そういう意味でお墓は私たちと大切な故人やご先祖とを繋ぐ大事な場所なのです。
先にお話しのご主人は、お墓参りを通じて愛しい奥さんに逢いに行ってらっしゃるのだと思います。
お墓を綺麗に保ち、お供えを手向けて、寂しくならぬよう訪問を欠かさぬように致さねばいけません。
そこに、待っている故人、ご先祖がおられると思えば、可惜(あたら)、お墓を粗末に致すことは出来ません。
仏壇で私たちがお手合わせ致す時、そこには大事な故人、ご先祖がやはりおられ、私たちの声を聞き届けて下さっています。
お仏壇の御本尊様は日々の私たちのその生活を見届け、見守って下さっています。
お墓と同様にお仏壇も私たちとご本尊、ご先祖を繋ぐ場所かと存じます。
最近は、お墓やお仏壇をお守り致すことが困難な時節となりました。
しかし、その存在の意味を考えました時、形態や在り方の変化はあっても工夫を致し大事に引き継いでいきたいものです。
ウクライナの報道が最近は少し減っているように思いますが、状況が好転致したとの報道は相変わらず聞こえてきません。
現地の皆さんの辛さは想像も出来ぬくらいかと存じます。
私たちは先に述べましたように、故人へ会う為にお墓へお参り致すことが容易に出来ます。
ウクライナの皆さんはお身内がお亡くなりになられても、ご遺体に会うことも出来ず、埋葬も叶わぬとのお話です。
その辛さ、悲しさはどれ程かと存じます。
ウクライナの皆さんがお亡くなりになった家族に安心してお会いできる日が一日も早く来ますことを心より祈念致したく思います。合掌