霊源院指定石材店のオフィス石太郎です。
最近では、お仏壇やお墓を持たないという人もおられます。
筆者はお坊さんではありませんので、このような状況を嘆くつもりはございません。
本項では、お墓やお仏壇について筆者が思うことを雑談的に書かせていただこうと思います。
記事の内容
お仏壇とお墓の違いを考えた時に第一に思いつくのは、ご遺骨の埋葬の有無ではないかと思います。
その他は、家の中にあるのと墓地にあるという違いから材質も異なります。
「その他は?」と、問われた時に筆者にはすぐに思いつくものがありませんでした。
早速ウィキペディアで調べてみたところ
お仏壇は「一般家屋の中に常設された、仏教の礼拝施設である。・・・」
お墓は「遺体や遺骨を葬ってある場所のことである。・・・」
筆者は、お仏壇とお墓は共に故人を供養する場所と思っていました。
お仏壇は仏教の礼拝施設ですが、そこに父母の過去帳を置かせていただいていたみたいです。
ここからは、時々の気持ちの流れに沿った本音で表現していますので、不快に感じる人がおられましたらご勘弁ください。
我が家のお仏壇も礼拝施設とのことですが、筆者はお経を覚えるつもりはなく、お仏壇の前でお経をあげることは考えていません。
しかし、折角お仏壇があるのですから、自分にとってもっと有効活用できないかを考えてみたくなりました。
我が家のお仏壇には、阿弥陀様と二人のお坊さんの掛け軸を祀っています。
筆者は、亡き父母を思いやる気持ちで仏壇に手を合わせてきました。
あらためて仏前に行きますと、あまり意識をしたことがなかったのですが、阿弥陀様とよく知らない二人のお坊さんと目が合うような気がしました。
ずっと長い間、我が家を見守っていただいていたようです。
理由はよくわかりませんが、小さな先祖代々のお位牌もあります。
ご先祖様といっても、正直よく知りませんので個々の顔が浮かぶ訳ではありません。
お位牌を見ながら、ご先祖様という大応援団の存在を意識して、雲のようなモヤモヤしたものを背後に想像していました。
そこで筆者は、応援団長であられる樹脂製の阿弥陀様と、目には見えない諸々の応援団の方々に「感謝する場所」として、お仏壇に接することを思いつきました。
だからといって父母を思いやらないという訳ではなく、目には見えない力に感謝することを加えた感じです。
お坊さんの中には異論があったり、鼻で笑う方々がおられることと思います。
しばし温かな目で見守っていただければ思います。
「感謝するとは?」
誰かに親切にしていただいた時には、無意識に頭を下げたり、とっさに御礼を伝える場合がほとんどです。
「さぁー今から感謝するぞー!」という場面は、日常では滅多にありません。
まずは合掌するのですが、これは仏前で感謝するためには必要なポーズです。
以前に聞いた話ですが、片手が仏様でもう一方の手は自分だそうです。(左右のどっちが誰だったかは忘れました)
「いつも、ありがとうございます!」と声にしてみましたが、スッキリとキマリました。
実際にやってみて、まぁまぁ気分の良いものでした。
そんなことよりも、何となく見えないと力が見ているような不思議な気分になったことの方が大きかったように思いました。
お仏壇が折角あるのだから、自分にとっても有意義なものにしたいという思いから考えだしたのがキッカケに始めることにいたしました。
筆者のように妄想するのが好きな人には、おすすめの朝の儀式です。
筆者にとってお墓参りとは、母が晩年過ごした施設や、長い間父が入院していた病院にお見舞いに行くような感覚です。
気合を入れて行くような感じではなく、「会いに来たよ。おやつ持ってきたよ。」という、過去に日常だった時の雰囲気とあまり変わりません。
特に大切にしているとか、無事に成仏できるようにとかいうことではなく、ただそこに居るという感じでお参りをしてきました。
年に3回お墓参りに行きますが、これは義務感ではなく「行かないと、何となく気持ち悪い(落ち着かないの意味)」という気分です。
筆者にとってお墓参りは、過去の生活がそこにあるというような感じです。
今までは、お仏壇とお墓のイメージが重なっていて、自分の中では同じ役目をする物だったように思います。
先日、土葬の頃の習慣について書きましたが、これがヒントになって、やっとお仏壇とお墓のスミワケのようなものが自分の中でできました。
日々の生活をする中で、お墓は過去~現在に触れ合う場所で、お仏壇は1秒先の自分に元気をくれる場所だと考えるようになり、それぞれの見方が変わりました。
もちろん、このような我流の考え方を皆様におすすめしている訳ではありません。
ただ、よくわからずに何となく「見よう見まね」でやってきたことも、見方を変えて深堀してみると自分にとって有意義なことと感じることがあるかも知れません。
筆者には仏教の考えを語る資格はありませんが、仏教関連の用具にはそれぞれに意味や役割があって現代まで残ってきたのだと思います。
自分達の生活に、もっと活かすことが出来れば、今まで以上に愛着が湧くのではないかと思います。