気が付けば、一年の半分の月日が過ぎ去ろうとしています、言い尽くされた言葉ですが、正しく「光陰矢の如し」、そのままです。
年齢を重ねるにつれ、日の経つ早さが加速致すことの理由は諸説あり、これといった言説には中々にお目に掛かりませんが、檀家さん、ご縁の皆さんのお宅へお参りに伺い、お茶を頂きながらお話を致す時、私、お相手様の区別なく、「1日が過ぎるのがあまりにも早いですね」というフレーズが頻繁に出てまいります。
ただ、間違いなく解っていることは、若い皆さん、ご年配の皆さん区別無く、与えられた時間は同じように止めようもなく、過ぎて行くとういう事実です。
さて、禅語に次の言葉があります、「看看臘月尽」。
看看臘月尽(かんかんろうげつじん)。「看看(みよみよ)」、気を集中致しよくよく見なさい、臘月(ろうげつ)は12月のことです。尽(終わり)。
12月は一年の締めですので「ほらほら、日々の自信の暮らし、行いをしっかりと見定めずにうかうかと過ごしていると一年などは直ぐに終わってしまうよとの警告の教えです。
そしてまた、臘月の言葉がとても大切なキーワードとなります。それは申し上げましたように一年の終わりという意味と、人の一生の終焉という意味も「臘月」には繋がります。
生活の中での時間が経つ早さはそのままに、人の一生もうかうか致していると、直ぐに人生の終わりを迎えることとなるぞよといっているのです。
近世になり、医療の進歩、食べ物の安全性の丹保、そして何より、私たち個々人が自分の頂いた「命」を守るために、健康管理に始まる自分守りの努力等、様々なことが重なり、驚くほどの長寿の時代となっています、それはとても良いことには間違いはありません。ただ、そのような中、漠然としてですが、「自分の人生はまだまだこの先続く」と思ってしまいがちではないでしょうか。
その思い上がりが、日々の暮らしを漫然と過ごさせ、今何をなすべきか、大事な事は何かとの問いかけを自分に致さぬままに日暮をしている気がします。
只、日の経つ早さを嘆くだけではなく、日々の自己の有り様に目を配り、内省と共に頂いた日々を大切にそしてまた、丁寧に生きて行きたいものです。
夜、寝る前にはこの「看看臘月尽」を反芻致し、一日を振り返り、迎える明日をより一層の喜びを持って生きねばと思うことでした。
現今、「終活」という言葉は既に市民権を獲得致し、多くの皆さんが当たり前に使い、世間の業者さんもビジネスに当たり前に使っておられます。
何時の話題かは忘れましたが、しばらく前に著名な作家さんが「終活無用論」をお唱えになられた記事を読みました。
それは、「私は終活などは致さぬ、自分亡きあとのことは、残ったものがいたせば良い」とのお話し。
それは自分亡きあとに残った者たちが被る負担を世間があまりに過剰に反応いたし、それがさも何よりの残った者へ送る何よりの財産との少し思い上がりではないかという思いを込めた警告の言葉として、私は読みました。
確かに、財産も含めご本人にしか解らぬことは整理を致し解るように申し送り、自分も又、安堵の気持で黄泉の国へ旅立つ用意は大切かとは思います。
しかし、昨今は自分が亡くなった後の葬儀の段取り、更には法事の段取り等迄、細かくご自身が支持なさる方も少なくないとお聞きいたします。
葬儀、法事、法要はお亡くなりの故人へいたす供養である事は間違いありませんが、残られた方々の癒しの行事、そして、大事な故人を追慕致す儀式です。
元気な時にお墓のこと、或いはそのような事態になった時の対応を皆さんでお話なされることはとても大切ですが、その時には、必ず、残られた家族の為である「儀式」ということも忘れずに、丁寧なご相談をいたして頂きたく願います。
先の著名な作家さんも解りませんが、そんなことを想い乍ら語られたような気も致します。
合掌