お墓の前では、「手を合わせて」ありがとう。

2023.06.06

お墓の前では、「手を合わせて」ありがとう。

霊源院ではお墓の前に有ります地蔵堂の中の掲示板に、そして、龍眠庵ではお墓の入り口の掲示板に貼ってあります言葉、表題の「お墓の前では手を合わせてありがとう」、この言葉はとてもシンプルですが、とても大切なな言葉ではないでしょうか。

檀家さん、永代供養墓のご縁の皆さん、日々、お墓参りの皆さんが絶えることはありません。土曜日、日曜日に限らず、私がお墓へ掃除の為にまいりますと、必ずにどなた様かがお墓に向かい、熱心にお手合わせなされています。

そのお参りなさるお方の背中を拝見致していますとお手合わせなされている故人への想いの深さを感じますと共にお手合わせを通して故人へお伝え致していることが此方迄、伝わって来そうな時もあります。

皆さん様々な想いを大事な故人へ伝えておられるとは思いますが、先ずはこの世に生をこの私が頂けた、ご先祖、ご両親へ向けて「有難う」、そして、大切に育ててくれて「有難う」、共に生活を致していた時は支えて下さり「有難う」とのその想いはどなた様に共通の想いではないでしょうか。

過日のブログにてお伝え致しましたが、私の母の7回忌に長野の家に帰り、お墓参りに行きました時もそうです。

墓前にてお経を読み、回向の後の手合わせの時、頭に浮かんだ想いは深い愛情を持ち、育ててくれて、そして、何時も見守ってくれて「ありがとう」との想いでした。

漢字の「有難う」ではなく、「ありがとう」であったように思います。

言い尽くされている言葉ですが、「いなくなって解る親の恩」、自分が「親になって解る、親の有難み」。つくづくにそれを感じました。

お亡くなりの親に限らず、大事な故人とは直接にお話を致すことは出来ませんが、お墓の前に立ち、合掌礼拝を致し、お墓の中におられる故人へ向かい、「ありがとう」」の言葉を心の中で念じたその時には、話こそ出来ませんんが、故人は私たちの直ぐそこで寄り添って下さってるのではないでしょうか。

時代が進み、故人を弔う儀式の意味を疑義なさる方、お墓の存在を無意味と語る方々もおられます。

勿論に人の思いは自由です、しかし、私は、大事な故人はそこのお墓に間違いなくおられ、故人も又、私たちが言葉を掛けに来ますことを願い、お待ちになられていると思います。

霊源院の客殿を気軽にお使い頂きました。

霊源院の客殿は法事の皆さんが集合場所として、或いは法事が始まるまでの休憩、待機場所として、有効にお使い頂いています。

最近は新しくお墓のご縁を頂きました皆さん、霊源院、龍眠庵の区別なく、「お墓参りの帰りにも休憩場所としてお気軽にお使い下さい」とお伝え致しています。

皆さん少しづつ、気軽に客殿へ上がりお茶を召し上がって下さっています。

先日も前もってお墓参りの日に合わせご利用のお約束を頂きましたお方が、家族でお越し下さり、ゆっくりして頂きました。

今は庭の緑も綺麗ですし、吹き込む風も爽やかですので、とてもお喜び頂けました。

皆さんにお寺の施設を喜んでお使い頂きますことは張り合いです。

そして、更には水子供養へお越しの方々、蓮華堂、絆縁堂へお参りの皆様にも、同様にお使い頂きたく思っています。

來春には次男がお寺に戻り、お寺の運営に軸足を移すことになっています、客殿をご利用の皆さんとも、より近しくお付き合いが出来るようになると思います。

敷居が低く、お寺へ行くのが楽しみと皆さんに申して頂けるよう、より一層に工夫致したく思っています。合掌

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