他を慮る(おもんぱかる)心と行為。

2023.10.25

他を慮る(おもんぱかる)心と行為。

慮るという言葉、ご存知のように思い遣りという言葉と同義語かと存じます。

言葉の響きと共にその字体、箱の中に「思う」の漢字があり、それ自体に優しさを感じる、漢字のような気が致します。

又、「思いやり」も勿論良い言葉ですが、この言葉はより一層に優しさが伝わって来ます。

恥ずかしいことですが、私は子供の頃、いえ、道場へ入門致したころでさえ、そうであったかもしれませんが、よく、周りの方からお前は、「先ず自分が」だけれども、自分の周りの人にも目を向けなければいけないよと言われたことを覚えています。

修行道場へ入門したての頃でさえ、その傾向は残っていたように記憶致しています。

そんな道場での暮らしの中で、師家(道場の先生)から、「お前さん、道場での眼目は先ず、座禅であることは当たり前やが、周りの同参(同じように修行をしている仲間)への「陰徳」を積むことは座禅以上に大切だぞ」と指導頂いたことを覚えています。

この「陰徳」という言葉については、以前にもお話致したことがありますが、他者の為に下支えとして何かを致す時も、見えるようにするのではなく、誰が致したのかも解らぬように致し、又、致したことをアピールするようなことがあっては決してならぬ、又、そうでなければ修行にさえならぬぞという言葉です。

「慮る」という言葉に直接に繋がる言葉かと思います。

そして、町で見たあの行為も正しく「慮る」です。

此方も以前にお話致したことがあり、少し重複致すお話しですが、外へ出て歩いていたり、車から外を見た時に時折、目に致す光景です。

男性、女性共に、ごみ取ハサミとビニールの袋を持ち、歩道を歩きながらそこに落ちている「タバコの吸い殻、そして、その他のゴミ」を拾いながら歩いているお方を、あちら、こちらでお見掛け致します。

その行為をなさっておられる方は、他を慮るとか、陰徳などの実践となど、おそらく想っておらず、ひたすら自分の想いにてなさっておられるとは思います。

しかし乍ら、その行為を目に致すたびに、簡単に真似を致すことは出来ませんが、「他を慮る心と行為」そのものであることは間違いないと思うことです。

又、お寺の中でも。

霊源院は水子供養の皆さん、通常墓のお参りの皆さん、永代供養墓のご縁の皆さんがご存知のように切れ目なくお参り下さいます。

お墓参りの皆さんは地蔵堂の御本尊の前に、人知れず、お線香、ローソク、ライターをお供え下さいます、水子供養の皆さんは蓮華堂、絆縁堂へ線香は勿論、お参りの皆さんの思いの丈を書き留めるノートなどを、やはり、人知れずお供え下さっています。

これらも、又、他を慮る心と行為に間違いありません。

そして、それは又、皆さんの大事な故人、ご先祖、水子さんへのとりもなおさず、「追善供養」となっています。

もう直ぐ、11月。

去り行く日々の早さをどなたからの口からも常々、嘆きを含めてお聞きいたします。

実際、今年もついこの間、新しい年の始まりと申しておりましたら、今年も既に残り2か月です。

年を重ねると日々の過ぎ去るのが一層早く感じるのは何故でしょうかと檀家さんとお話し致す機会も又、多いです。

これには諸説あるようですが、一つに「年齢を重ねると、そのお方が一日になさる事が決まりきったことしかなさらぬようになり、新しいこと、新しい知識が入って来なくなるから」という説もあると聞いたことがあります。

それに関連致す新聞記事に目が留まりました。

朝日新聞の「折々のことば」です。

先に述べました年齢を重ねるごとの時の早さに通じる話で、うん、うん、と納得致し読みましたので「原文」のまま紹介致しますので味わって見て下さい。

英文学者の外山 滋比古さんという方のお言葉です。

(定年後に退屈になる原因の一つは、「失敗」する機会が無いことだ。

「若い頃の苦労」のみならず「歳をとってからの失敗」も買ってでもせよと英文学者は説く。

定年で仕事から離れ、老いて人の世話になることが増えると、失敗のリスクが減ってくる。

己の裁量が大きい仕事は、失敗や悔しい思いもして傷つくリスクはあるが、「面白み」は確実に増す。

そのためには「人生のテーマ」を改めて設定するのがいいと。「お金の生理学」から。)

原文のまま、ご紹介させて頂きました。

日々の過ぎ去ることはどなたにも止めることは出来ませんが、その過ぎ去るスピードに少しでもブレーキが掛けられるよう、嘆いていてばかりではいけないと思うことでした。合掌


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