お彼岸を超えて早一月以上が過ぎました、新緑の清々しい時期はとても気持ち良く、嬉しいのですが、朝晩の温度差の大きさには未だ身体が追いついて行きません。
毎日半袖、長袖を一日の中で使い分けています。
さて、私事ですが今月の一日の朝方、強烈な腰の痛みを感じ目が覚めました。
今までに感じたことの無い強烈な痛みが腰に突き刺さり、脂汗が出る程でした。
家内に声掛け致し、愈々、「救急車」を呼ばねばと思う程でした。
暫く、唸っているうちに思い起こしたことが、昨日に不要の不燃ごみの搬出を業者さんに依頼致し、自ら長い時間重い物を運んだことを思い起こしました。
「ぎっくり腰」かと思い至りますと少し落ち着き、傷みに対応致す余裕が出来、じっと致しておりますと、少しだけ痛みがましになりましたので、救急車は無しにて済みました。
それにしても、経験の無い痛みは変わらず、この日は本山のお勤めが朝の7時からあったのですが、とても無理ということで休ませていただくこととなりました。
寝返りを打てない中で、じっと横になる時間となり辛い朝の始まりとなりました。
ぎっくり腰は何回か経験済みなのですが、今回は少し違う厳しい痛みでした。
この日は動くことを諦め、安静を目指すこととなりました。
それでも、お約束の水子供養、法要がありましたので完全に安静を保つことは出来ず、法要だけは何とか致すことが出来ほっと致したところです。
無事に法要が終わり思いました。
熱さ、寒さは勿論、体の辛い痛み、これは自分が経験致して本当に解る辛さなのだと、改めて身に染みました。
若い時、ご縁を頂いている檀家さんへお参りに行き、法要の後にお茶を頂き、檀家さんと親しくお話しを頂きました。
私から見ますと高齢のお方が多く、お話しの中で、身体の不調とその辛さをお聞き致すことが多かったように思います。
漠然とその辛さは伝わりましたが、やはりどこかで自分はそれが無く、そうなのかな位の想いで受け答えを致していたように思います。
やはり他人事として聞いていたのです。
その自分がその時の檀家さんのお年に近づき、今回のことです。
他者の痛みを本当に解らなかったことへの罰が来たのでしょうか。
熱さ、寒さは自分の五感で感じそれを受け取るのですが、病から来る辛さも同じなのです。
禅の言葉に「冷暖自知」(れいだんじち)という言葉が有ります。
私達は兎角、例えばあれは面白かった、これはつまらなかったという、人から聞いた話をそのまま鵜呑みに致しあれは良い、これは悪いという判断を致したりすることは無いでしょうか。
近しいお方から辛いことの相談を受け通り一遍に答えたりしてないでしょうか。
自身の思い込み、経験だけで人と相対するのでは無く、経験が可能なことは経験致すことを心掛け、経験致してないことを人から伝えられた時には経験致していないことであったとしても、それを真摯に「我がことと」受け止め、他者に向き合う姿勢を忘れずに向き合いましたら、「冷暖自知」に近づくことが出来るのではないでしょうか。
本当の意味で他者と正面から向き合う大切さを実行致す為にも、この言葉を忘れてはならぬと今回のことを通して思うことでした。合掌